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キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

「義」について

蜆汁硯海さん http://plaza.rakuten.co.jp/basiisi
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聖書及び聖書関連書物で、「義」という言葉がなんの説明もなく使われています。この言葉は日常用語では使われていません。辞書には、「道理、条理、教え、教義」などの意味があるようですが、それならそのように書いてもらいたいところです。しかし、おそらくそのような意味合いで使われているのではないと思います。
ある本で、「義」とは「神を信じること」これ以外にはない、というものもありました。行動とは切り離して理解すべきというものだと思います。
しかし、1冊だけの説明では不安が残ります。
かといって「義とは」を真正面から説明する本も見当たりません。大事な言葉のはずなのに!と思っています。(2006年08月02日 11時51分51秒)
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蜆汁硯海さん(御名前読めません。相当学識の深い方とお見受けしました)。

「義」というのは、神の御性質そのものです。神は義(ただ)しい存在です。どうもそれ以外の「義」の説明は見あたりません。
神は人間にモーセを通して「十戒」を与えましたが、これは義である神が、人間に生きるように求めた「義」の標準です。
それに対して、人間は神の「義」の標準に達せず、「不義」とされています。
神と人はお互いにそっぽを向き合っている夫婦のようなものです。
そこで神は神と人間との不幸なありさまを治すために、キリストをとりなし手として送りました。

<与えられる義>
キリストの使徒パウロは「わたしたちは信仰によって義とされた」と、ローマの信徒への手紙5章1節に書いています。だから「神に対して平和を得ている」(同)のです。
これは、「神の御目にかなうものとされた」という意味です。本来正しくあり得ない者が、神がつかわされたキリストへの信仰によって、正しい者(義人)と見なされた、それは特別のお目こぼしで、「あわれみ」とか「恵み」という言葉で表されます。キリストへの信仰のお陰で、思いがけない得をしたのです。

<行動する義>
神は大盤振る舞いをなさって、めちゃくちゃに汚れているボクたちを、「義人」として受け入れます。つまり、「正しい人」として。人がなんと言おうと、それは、神のお目こぼしです。
ボクたちを義人として受け入れる神は、同時に、「与えられた義」を生きる力を、同時に与えて下さいます。「新しく生まる」とか、そんな言葉が見られます。
ここがスゴイことなのです。初めは、めちゃめちゃに汚れた者が、身分不相応な「義人」として生き始めます。ゼロからのスタートですが、赤ちゃんであり、成長するのです。そのようにして、信徒は、お目こぼしによって与えられた身分にふさわしくあろうとします。「聖化をめざす」そんな言葉で表現されることもあります。

     やまひで
     (2006/8/3 やっと夏らしくなった午前に)


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